1368年晩秋、リトアニア大公オルゲルトは、リトアニアとスモレンスクの連合軍を率いて進軍してきた。…続きを読む
モスクワ大公国とリトアニア大公国の間の代理戦争の様相も呈していったトヴェーリ公国内の内紛であるが、大公ドミートリー四世が、ミハイル率いるトヴェーリに恨みを晴らす機会はすぐさまやってきた。…続きを読む
1360年代になると、トヴェーリの分領諸公らの争いが目立つようになってきた。この争いは、国家間の衝突へと発展していく。…続きを読む
大公ドミートリー四世の内面においては、正直さが狡猾さと、勇気が優柔不断と、度胸の良さが露骨な小心さと、併存していた。…続きを読む
ドミートリー四世は、サライ-バトゥにいるムラート汗より大公国勅書を得た。しかし、ママイを背後に従えヴォルガ川右岸を支配していたアブドゥラフ汗の支持をもとりつけたモスクワの貴族らは…続きを読む
モスクワ公ドミートリーが10歳を超えると、彼を取り巻くモスクワの貴族らは、ドミートリーを連れてヴォルガ川の岸辺へ向かった。1361年のことであった。…続きを読む
1350年10月12日、ズヴェニゴロドにて、イヴァン・カリターの息子でありその土地の公であるイヴァン(後の大公イヴァン二世)の家族に、第一子が誕生した。…続きを読む