NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ 14世紀頃のリトアニア領土 ja.wikipedia.org/より

 1360年代になると、トヴェーリの分領諸公らの争いが目立つようになってきた。この争いは、国家間の衝突へと発展していく。

 モスクワ大公国とリトアニア大公国の間の代理戦争の様相も呈していったトヴェーリ公国内の内紛であるが、大公ドミートリー四世が、ミハイル率いるトヴェーリに恨みを晴らす機会はすぐさまやってきた。

 1368年の初め、ドロゴブーシュのエレメイが、あいかわらず前と同じような土地問題を抱えて、モスクワへやって来た。そこで大公ドミートリー四世には、嘆願者らを擁護するきっかけが生じたのであり、彼はトヴェーリ公ミハイルを事件の審理のためにモスクワに召喚した。

 1368年の夏、公の裁きではなく都市裁判が行われたが、問題の中には言い争うような契機は存在しなかった。というのも、ミハイルは遺言によって所有する分領地を手にしたからである。こうなると、彼は何の理由もなく捕えられ、所有する分領地の放棄するよう脅され、従者と共に投獄された。

 ある出来事が彼を救った。モスクワに三人の汗国の公が自分たちの用事でやって来、極めて大きな影響力を持つトヴェーリ公が拘置されていることを知ると、自分たちの当惑と不満を表明したのである。取るに足りない諸公の内乱にタタール人が注意を払うことはなかったが、影響力を持つ諸公間の論争は別だった。通常、そういった問題は軍事衝突に発展し、それは汗国への貢税の収量を減らすことにもなる。汗国の公らはトヴェーリ公の投獄を見過ごすわけにはいかず、ミハイルとその貴族らは解放されることとなった。ドミートリー四世とミハイルの間には和平条約すら結ばれたが、結果的には、トヴェーリ公ミハイルという和解の余地のない強大な敵がモスクワから立ち去ることとなった。

 これで事を終わりにするつもりは、無論のことドミートリー四世にはなかった。一ヶ月も経たない内に、彼は力ずくで論争中の分領地の一部を占領し、エレメイ公と共にそこへ自分の代理人を据えた。さらに夏の終わりには、モスクワの軍隊をトヴェーリに向かって進軍させた。ドミートリー四世は、トヴェーリを攻撃することによって、モスクワに対抗するトヴェーリの分領諸公の団結に警告を発しようと試みたのである。その時点で、ドミートリー四世のトヴェーリでの唯一の同盟者であるカシンのヴァシーリー公が死去し、ミハイルが完全な権利を有するトヴェーリ大公となっていたのだから、なおさらであった。

 モスクワ軍の来襲を受け、ミハイルは再びリトアニアへ去った。リトアニア大公オルゲルトには、ルーシの国境付近の土地に関して自ら含むところがあったし、それに加えて、年の初めにモスクワの人々はオルゲルトからルジェヴァの土地を奪い取ってもいた。

 1368年の晩秋、大公ドミートリー四世に向かってリトアニアとスモレンスクの軍隊が出陣した。連合軍を指揮したのはオルゲルト自身であり、彼は素早く不意をついて攻撃をしかける名人であった。この遠征の目的と方向は、固く秘密にされていた。

 次回は「リトアニア軍によるモスクワ来襲」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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