NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ 現在のスーズダリ
otdyhateli.comより

 ドミートリー四世は、サライ-バトゥにいるムラート汗より大公国勅書を得た。しかし、ママイを背後に従えヴォルガ川右岸を支配していたアブドゥラフ汗の支持をもとりつけたモスクワの貴族らは、自分たちの公であるドミートリー四世の権力をさらに強めようともくろんだ。1363年の前半、ドミートリー四世は首都ウラジーミルにて、アブドゥラフ汗の使者から、二つ目の大公国勅書を受け取った。

 サライ-バトゥでは僭称者とみなされていたアブドゥラフ汗から勅書を得ることは、彼を汗として認めたことを意味し、このことを耳にしたムラート汗は当然の如く激怒した。ムラート汗は、前大公ドミートリー三世(スーズダリ公)に宛てた大公国勅書を使者に持たせ、さらに小部隊をも従わせてスーズダリへ差し向けた。これを受けて前大公ドミートリー三世はすぐにウラジーミルを占領したが、そこに留まることができたのは12日間だけであった。モスクワ軍は前大公をスーズダリまで追撃し、そこでの籠城を余儀なくさせ、町の周辺を襲撃した。前大公ドミートリー三世は、大公国勅書を放棄する以外なかった。

 大公ドミートリー四世は、従兄弟のウラジーミル(イヴァン二世の弟アンドレイの息子)と相互愛と友好の条約を結んだ。

 1364年10月23日、大公の弟イヴァンが亡くなり、続いて12月27日には彼らの母親である大公妃のアレクサンドラが亡くなった。弟イヴァンの領土はドミートリー四世のものとなったが、彼には近しい親族が一人もいなくなった。

 1364年の冬の初頭、スーズダリにいた前大公ドミートリー三世の元に、サライ-バトゥから再び大公国勅書が届けられたが、今度は新しい汗のアジスからであった。ところが、前大公は自分の弟ボリスとの間で問題を抱えており、大公国勅書をきっぱりと辞退した。その見返りに、彼は弟ボリスに対抗するための軍事援助をドミートリ―四世に求めた。その頃ボリスはニージニー・ノヴゴロドを不当に占領していたが、二人のドミートリーは力を合わせてボリスをニージニー・ノヴゴロドから退却させることに成功し、大公位をめぐって戦ったかつてのライバルは、同盟者へと変わった。

 1366年1月18日、二人の公の政治同盟は、結婚の絆によってさらに強められた。大公ドミートリー四世は、前大公の末娘であるエヴドーキヤと結婚したのである。エヴドーキヤはドミートリー四世の最初で唯一の伴侶となり、仲良く睦まじく暮らしていたと思われる。第一子のダニールの誕生日は正確には分かっていないが、1371年に次男ヴァシーリーが生まれ、その後、ユーリー、セミョーン、イヴァン、アンドレイ、ピョートル、そして父親が亡くなる数日前にコンスタンチンが生れた。息子たちが生れる合間には娘たち―ソフィヤ、マリヤ、アナスターシヤ、アンナ―も生まれた。

 次回は「石造のクレムリンの建設」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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