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ロシア文化


中世ロシア興亡史講義 ~歴代君主の素顔とその真実~ 862-1598
Лекции по истории средневековой Руси

第151回 スーズダリのドミートリー、大公となる(統治1360-1363年)

 1359年11月、モスクワで大公イヴァン二世が逝去した。後継者の二人の息子の内、年長のドミートリーは9歳になったばかりであった。この事実は、モスクワ公一族の大公国統治を打ち切るチャンスを、他のルーシ諸公に与えることとなった。葬儀及び追悼の儀式の期間が終わった翌年の春には、大公国勅書を求める者たちは続々と汗国へ向かったのである。

 この七年前、ノヴゴロドの人々に支持されていたスーズダリ公コンスタンチンは、やはり勅書を求めて汗国を訪れたが、その時は大公位はモスクワ公一族に留まった。1355年、スーズダリ公コンスタンチンは死去した。その後、スーズダリ公国の統治は彼の長男アンドレイの手に移った。アンドレイは父親と同様、豊かでよく防備が行き届いているニージニー・ノヴゴロドに居を定め、すでにずっと前から公国の首都の意義を失っていたスーズダリを弟のドミートリーに譲渡した。兄弟たちはルーシの中でも最も財力のある公であり、汗国の風習によく通じていた。

 莫大な贈り物を携えたアンドレイとドミートリ―兄弟は、弟のボリスに領地の管理を任せると、他の諸公らに混じって汗国へ出発した。汗国ではすべてがこの上なくうまくいった。最たるライバルであるモスクワのドミートリー(イヴァン二世の長男)は若年ゆえに大公位争いから退き、ナウルーズ汗は、アンドレイに大公国勅書を勧めた。しかしながら、もの静かでおとなしい性格のアンドレイには、最高権力は決して魅力的なものではなかった。彼はおそらく、弟のドミートリ―を支持するために汗国へ来たのであろう。アンドレイはあらゆることから判断し、財政理由を含めて説得材料を見つけ、自分の弟のドミートリーに勅書を渡すよう汗を説き伏せた。

 1360年6月22日、新大公ドミートリ―三世は大公位即位の儀式をウラジーミルのウスペンスキー大聖堂で執り行った。多くの同時代の人々、とりわけモスクワの人々は、新大公ドミートリー三世は「父親の世襲にも祖父の世襲にも基づくことなく」大公位に就いたとみなした。部分的には彼らは正しかった。なぜならば、ドミートリー三世の父親はウラジーミル大公位に就いたことはなかったからである。ルーシの昔からのしきたりによれば、親も大公であることは大公位継承の必要不可欠条件であった。だが、しきたりが破られたとはいえ、スーズダリのドミートリー三世は、モスクワの若いドミートリーの遠縁の叔父に当たった。すなわち、系図においては、彼らの共通の先祖のヤロスラフ二世に、スーズダリのドミートリー三世はモスクワの幼いドミートリーよりも近しくあった。

 ドミートリー三世は、すでに確立していた伝統に従って自分の世襲領地のスーズダリには住まわずに、ウラジーミルに腰を据えた。無論、それなりの考えがあってのことであり、古いルーシの首都を自分のものとして確立するためであった。

 次回は「敵対するモスクワ」。乞うご期待!!

挿絵:ドミートリー三世(スーズダリ公) http://deduhova.ru/statesman/より

(文:大山・川西)

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