◆ 第142回 モスクワ公イヴァン、大公への道
イヴァンはスーズダリ公アレクサンドルを引き連れて、タタール軍と共にトヴェーリを襲撃した。その後帰途に就いたタタール軍に続き、イヴァンとスーズダリ公アレクサンドルも1328年に汗国へ到着、イヴァンは最大限の誠実さをもって汗の命令を遂行したのであり、多大な褒賞が与えられて然るべきだった。しかしながら、ルーシ諸公内の誰かが飛びぬけて大きな力を持つことを恐れていたウズベク汗は、イヴァンに報いることなく、ウラジーミル大公国を二つに分割して、イヴァンとスーズダリ公に与えたのであった。
スーズダリのアレクサンドル公には、ウラジーミル、それにヴォルガ川沿いのニージニー・ノヴゴロドとゴロジェツが与えられ、イヴァンのものになったのは、モスクワに加えて、ノヴゴロドとコストロマのみであった。破壊され荒廃したトヴェーリの地は、プスコフに逃走中の前大公アレクサンドルの弟である、トヴェーリ公コンスタンチンに与えられた。
こうして1328年に、イヴァンとスーズダリ公アレクサンドルは分割された大公国勅書を受け取った。それと共に彼らには、プスコフへ逃亡した前大公アレクサンドルを汗国へ引き渡す命令がウズベク汗から下された。1329年3月末にイヴァンはノヴゴロド公位に正式に就き、4月にはイヴァンの指揮の下、ルーシ諸公の連合軍がプスコフ目指して動き出した。かつての大公アレクサンドルは自分の妻と子供をプスコフに残し、自身は亡くなった兄ドミートリーの妻の父親である、リトアニア大公ゲジミンのところへ去っていった(第136回参照)。
その頃ウラジーミルは首都としての真の重要性をすでに失っており、大公位の戴冠式を執り行う地としての機能のみが残っていた。1332年、スーズダリ公アレクサンドルが死去すると、ウズベク汗は全ウラジーミル大公国の勅書をイヴァンに渡した。それには汗に対して相当豪華な贈り物があったと推察され、また言うまでもなく、イヴァン側からの約束でもあったと思われる。イヴァンが全ウラジーミル大公国の大公となると同時に、首都としてのすべての機能は完全にモスクワへ集中することになるが、戴冠式の機能だけはさらにこの後100年間ウラジーミルに留まることになる。
しばらくの間、大公イヴァンはルーシの諸土地で秩序を確立していった。彼は汗に忠誠を示すため、汗国へ頻繁に赴き、汗本人にも汗の妻にも、さらに汗の高官らにも高価な贈り物を持参していった。その結果、タタール人の襲撃は止み、ルーシの全地に40年に渡り大いなる平和があった。汗国との新たな争いごとが生じたのは、イヴァンの孫である、ドミートリー・ドンスコイの時代であった。
次回は「“ルーシ国土の収集者”であった大公イヴァン」。乞うご期待!!
▲ ウズベク汗
http://history-doc.ru/uzbek-xan/ より
(文:大山・川西)
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