日露領土問題の歴史(22)
1643年オランダのM. G. deフリースは日本の東岸を北航して、樺太 東岸の知床岬の北に到達した。この間、択捉島と得撫島を発見して、それぞれをスターテン・ラントとコンパニース・ラントと命名した。この航海はヨーロッパ人による日本北辺調査の最初にあたり、フリースは奥羽北岸からサハリン南東岸にかけての実測地図をのこした。この地図では蝦夷と樺太は接続している。国後は蝦夷と一体で,択捉島(ステートランド)、択捉水道(フリース海峡)、右方に大きなウルップ島(コンパニーズランド)が見える。太平洋はシナ洋となっている。
17世紀の中葉にはハバロフなどによる極東への探検、植民地化が始まり、清国、韓国との間に紛争が絶えなかった。1689年、こうした紛争を終結させるためネルチンスク条約が締結され国境をアルグン川・ゴルビツァ川とスタノヴォイ山脈の線に定めた。ウダ川とスタノヴォイ山脈の間は未確定部分としアルグン川以南からロシア人は退去する、不法越境を禁止する、旅券をもつものは交易を許されるということになった。一応、対等の条約ではあったがロシア側は念願の不凍港を獲得できなかった。当時、軍事力で優勢であった清はロシアを朝貢国として見做していた。その後、1858年のアイグン条約で黒竜江が両国の境界線となり、1860年の北京条約でネルチンスク条約は廃棄された。
江戸時代中期の元禄13年(1700年)になると、幕府の命令により松前藩は千島や勘察加(カムチャツカ)を含む蝦夷全図と松前島郷帳を作成し、正徳5年(1715年)には、幕府に対し、「十州島(北海道)、唐太(カラフト)、千島列島、勘察加」は松前藩領と報告した。
一方、1726年ごろ コズイレフスキーはエトロフ島民シタナイの話に基づきマトマイ島とクナシリ島、エトロフ島とクナシリ島の間で交易が行われていること、択捉・ウルップ島民はどこの支配も受けていない事、クナシリにマトマイの支配が及んでいるか否かは不明と記述している。
1762年にロシアはエカテリーナ2世の治世となり、1764年にはイルクーツクに日本航海学校を、1768年に日本語学校をそれぞれ設置し、日本近海への航海を盛んに行うようになった。18世紀にはロシアと日本は、従来の原住民を介する関係からほぼ隣国と言える関係となった。
日本近海、特に蝦夷地周辺に『赤蝦夷』と呼ばれたロシア人が進出するに及んで江戸幕府はこれと競って北方領土の確保、拡張を図るようになった。
1786年(天明6年)に最上徳内が択捉島を探検した際には、上陸時に3名のロシア人が居住し、アイヌの中には正教を信仰するものもあったことが確認されている。
1853年、アメリカのペリー提督の浦賀来航に続くようにロシアのプチャーチン提督が3隻からなる艦隊を率いて長崎に来航。同年にはロシアの軍人ニコライ・ブッセがサハリン島を占領したが同年3月のクリミア戦争勃発を受けて撤退した。1854年8月には英、仏連合軍によるペトロパブロフスク・カムチャツキー包囲戦が行われロシア軍が勝利した。1855年2月にプチャーチンは、伊豆の下田で日露和親条約(Симодский трактат、下田条約)を締結した。
(右)プチャーチン提督
以上が明治維新にいたるまでの千島、樺太の領有に関する歴史の概略である。これらの事実は北方の島々の領有が固定的なものではなく、歴史的に変遷してきたことを明白に示している。
~続く~
(柴田)