ルーシ史上、初めてモスクワで戴冠式を行った若き大公ヴァシーリー二世は、次に叔父ユーリーを大人しくさせようと決めた。彼は、ドミートロフ公国からユーリーの代官を追い出し、…続きを読む
1431年、ヴァシーリー二世の祖父であり、彼の後見人でもあったリトアニア大公ヴィトフトが永眠した。彼の地位を継いだのは、ポーランド王ヤガイロの兄弟である…続きを読む
ドミートリー・ドンスコイの子孫たちの間の権力をめぐる争いは、大公ヴァシーリー一世が亡くなった直後から始まった。ヴァシーリー一世の息子であるヴァシーリー二世が十歳で大公位を継いだ際に…続きを読む
自分が亡くなるかなり前から入念に遺言状を作成していたヴァシーリー一世は、大公位を三男ヴァシーリーに譲った。このヴァシーリー一世が世を去った時、息子のヴァシーリー二世はわずか十歳であった。…続きを読む
大公ヴァシーリー一世は、自分の後に続く代について、幾度となく思いめぐらした。彼が最初の遺言状を作ったのは1405年のことであり、代々の大公の例にならって、汗国への行軍出立前に作成した。…続きを読む
ヴァシーリー一世が自らの統治期間、少なからぬ犠牲を払っても友好関係を保持しようと努めた、その相手のリトアニア公ヴィトフトは、大概において平和を乱しはしなかった。…続きを読む
ヴァシーリー一世の妻の父親であるリトアニア公ヴィトフトは、内戦を経て1392年からリトアニアの地を統治していた。1395年9月末、ヴィトフトはスモレンスクを占拠し…続きを読む
1392年、ヴァシーリー一世とノヴゴロドとの最初の紛争が勃発した。ノヴゴロドの人々は大公と結ぶ条約の中で、モスクワ公の裁判に出頭しない権利をほぼ常に獲得していたが…続きを読む
1390年12月、ヴァシーリー一世の花嫁となるリトアニア公の娘ソフィアが、モスクワへ到着した。翌年1月9日、彼らの結婚式が執り行われた。…続きを読む
1389年の春、重病の大公ドミートリー・ドンスコイは遺言状を作成した。長男のダニールはこの時すでに落命しており、彼の後継者となったのは…続きを読む