NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

ドミートリーの戴冠式
Государственное управление в России в портретахより


イヴァン三世時代のモスクワ
MoscowChronology.ruより

 イヴァン三世の後継の座を巡る、彼の孫ドミートリーと、二度目の結婚で生まれた息子ヴァシーリーとの間の不和と陰謀の芽は早々に摘み取られた。孫ドミートリーを戴冠式を経てイヴァン三世の正式な共同統一者となり、息子ヴァシーリーはノヴゴロドとプスコフの大公となった。

 ヴァシーリーは、広大なノヴゴロドの領土を治めるにあたり、即座に様々な諸問題を理解するようになるのだが、その中でも、ノヴゴロド-プスコフ分領公国形成の問題があった。というのも、ノヴゴロド-プスコフ分領公国はその領土面積においては、モスクワ公国をおそらく上回っていたからである。

 イヴァン三世の共同統治者であるドミートリーや貴族議会の長老らからは、大変な労苦と犠牲によってようやく得たモスクワ国家の全一性を壊し、領土を細分化する試みに対して異論が発された。

 一方、イヴァン三世は、特にその晩年には自分に対する反対意見に我慢することができなくなっていた。イヴァン三世は、貴族議会の議長、その息子、その娘婿の処刑を命じた。教会が間に入ってくれたおかげで父と息子は死を免れることができたが、無理やり剃髪させられて修道院に幽閉された。議長の娘婿であったリャポロフスキー公は1499年2月5日に、氷の張ったモスクワ川にて公衆の面前で首を斬り落とされた。この後、ヴァシーリーは父親の二番目の共同統治者として、ノヴゴロドとプスコフの大公として正式に公示された。

 孫のドミートリーに対しては、イヴァン三世はいかなる処罰も下さなかった。おそらくイヴァン三世は、ドミートリーにとっては貴族議会のメンバーに下された処罰が十分に分かりやすい教訓になる、と考えていたのだろう。しかし、ドミートリーを共同統治者から引きずり下ろす考えは、その後に起こったことから推察するに、イヴァン三世の心の中にすでにこの頃芽生えていたように思われる。

 自分が祖父の寵を失ったことを聞き知ったドミートリーは、極めて慎重に振る舞って、どのようなささいなきっかけも与えないように気を付けるようになった。

 しかしながら、事件は起こるべくして起こった。

 その事件の背景を知るには、1489年まで遡らねばならない。1489年、イヴァン三世は、当時慣例となっていた抽選によってではなく、彼自らがゲンナジー・ゴンゾフをノヴゴロドの新しい大主教に任命した。このゲンナジー・ゴンゾフは地元の聖職者と折り合いが悪く、互いが互いを異端だとして非難し、不満を持つ者らの迫害が始まるようになった。

 これが発端となり、この事件は、イヴァン三世の共同統治者であるドミートリーが廃位させられるところまで至るのである。

(文:大山)

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