NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

年代記の中に描かれた「手かせ足かせをされて亡くなったセルポフ公ヴァシーリー」
ru.wikipedia.orgより

モスクワのアルハンゲリスキー大聖堂
ja.wikipedia.orgより

 年代記に記されているヴァシーリー二世の晩年のエピソードは、極めて残酷なものである。

 1462年の初め、すでに六年間も監禁状態にあった、セルポフ公ヴァシーリーを解放するために彼の腹心らが陰謀をめぐらせた。このセルポフ公ヴァシーリーはヴァシーリー二世の妻の親族に当たり、ヴァシーリー二世が苦難中もずっと支えてきたが、1456年に謀反の疑いで投獄され、彼の領地は大公の世襲領地となっていた。

 しかしながら、セルポフ公ヴァシーリーの家臣らは、密告によって捕まってしまった。

 彼らは「これまで見たことのないような厳刑」に処され、鞭で打つ、馬で通りを引きずり回す、両腕を切り離して鼻をそぎ落とす、といったことが行われ、その後に一部の者が斬首された。

 モスクワの人々が驚いたのは、これらの刑の残酷さ以上に、処刑が(復活祭前の)大斉期が終わるまで延期されず、まさに大斉期の最中に取り行われたことであった。

 この陰謀発覚後、セルポフ公ヴァシーリーは幽閉されていたウグリチからヴォログダへ移送された。彼はその後さらに20年以上生きながらえ、1483年にヴォログダの地の鉄格子の中で亡くなった。時はヴァシーリー二世の息子、イヴァン三世の治世であった。なお、このセルポフ公には二度の結婚歴があり、四人の息子がいた(二人のイヴァンにアンドレイ、ヴァシーリー)。

 1462年の春近く、ヴァシーリー二世は進行性の大病にかかった。その当時、この病の治療は、通常は熱い火口で体の様々な箇所を焼くことであった。おそらく、医師たちはやり過ぎたのであろう。大公の体には膿んだ傷ができ、おそらく敗血症に感染したと思われる。自らの死期を感じたヴァシーリーは、遺言状に署名した。大公国は息子イヴァンのものとして確認され、最も重要な都市を含む最も広大な分領地が彼に渡った。他の息子たちとその妻には、より小さく重要性の高くない分領地が残された。

 1462年3月27日、大公ヴァシーリー二世は逝去し、モスクワのアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬された。

 ちなみに、セルポフ公ヴァシーリーもこの同じアルハンゲリスキー大聖堂に埋葬されている。

 次回は「ヴァシーリー二世の共同統治者、イヴァン三世」。乞うご期待!

(文:大山・川西)

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