NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

現在のヴォログダの町
rulandinfo.ruより

キリロ・ベロゼルスキー修道院
ru.wikipedia.orgより

 目を潰されて盲目となったヴァシーリー二世は、妻と共にシェミャカの分領地であるウグリチ(現在のロシア・ヤロスラヴリ州にある古都。モスクワから北へ200キロ)へ送られ、その地に幽閉された。一方、75歳となるヴァシーリー二世の母親ソフィアはチュフロマの地(現在のロシア・コストロマ州にある町。州都コストロマから北東へ171キロ)に幽閉された。

 新たに登場した大公ドミートリ―・シェミャカが、民衆の間で支持を得ていないことはすぐに明白となった。その上、住民たちは明らかに次の事実に憤慨していた。それは、シェミャカで聖職者を仲介として、ムーロムからヴァシーリー二世の子供たちを騙しておびき出し、彼らを移送して父親と共に監禁したことだった。

 高位貴族の多くがリトアニアへ逃亡した。他の者らはモスクワを離れて、武力でもってヴァシーリー二世を解放する機会を狙っていた。

 ヴァシーリー二世解放の最初の試みは1446年の夏に行われ、シェミャカの二つの部隊が撃破された。しかしながら、大公を解放するまでには至らなかった。

 一方、教会会議もシェミャカに圧力をかけ、盲目公とのあだ名を与えられた公の運命を和らげるよう訴えた。

 モスクワでの自らの地位が不安定であることを認識していたシェミャカは、唯一の問題である、退位させられた公が釈放されることの妥当性を論じる会議に、貴族や聖職者らを召集した。そして、会議はヴァシーリー二世のための決議を出した。

 1446年9月、シェミャカ自身がウグリチへ出向き、ヴァシーリー二世と彼の子供たち、そして召使を釈放し、モスクワへ連れて行った。シェミャカはヴァシーリー二世のあらゆる罪を赦免するかのように振る舞い、彼のために宴会を開き、ふんだんな贈り物をなした。しかしながら、ヴァシーリー二世に与えられた地は、遠方のヴォログダであった。モスクワからヴォログダへ出立したヴァシーリー二世であったが、おそらくその前に、半ば強制的な手続きの下、自分を見下してひどい扱いをしたシェミャカの最高権力を認め、誓いとして十字架に接吻せねばならなかったであろう。

 さて、ヴァシーリー二世は、ヴォログダの地に長くとどまることはなかった。

 キリロ・ベロゼルスキー修道院の修道院長トリフォンは、同僚らの認可を得て、ヴァシーリー二世にも、彼の子供らにも大公国の祝福を与えた。すなわち、トリフォンはヴァシーリー二世から、彼がシェミャカに対して為した十字架上の誓いを取り払い、その罪を自らに担ったのである。「十字架に接吻し、城をドミートリー・シェミャカに明け渡したその罪は、私と私の兄弟たちの頭上に下るように」――このようにトリフォンはヴァシーリー二世に祝福を授けた。

 次回は「ドミートリ―・シェミャカの最期」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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