NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

https://centr-intellect.ru/moskva-kak-centr-obedinenija-russkih/

 ヴァシーリー二世の結婚式の最中に皆の眼前で侮辱された、ガーリチ公ユーリーの息子たち(ヴァシーリー・コソイとドミートリ―・シェミャカ)は、それまで、モスクワと対立する父親を積極的に支持してはいなかった。しかし、この一件で、彼らは自分たちの小さな従士団を引き連れて、ヤロスラブリを荒らしながら父親の領地であるガーリチに向かい、父ユーリーと合流した。

 1433年4月の初め、彼らの軍はモスクワに向かって突如進軍した。

 大公ヴァシーリー二世がこの襲撃のことを知ったのは、ユーリーたちがすでにペレヤスラヴリを占領した時だった。ヴァシーリー二世はユーリーに対して和平の申し出をするが、それがはねつけられると、ヴァシーリー二世は市民の義勇軍を編成し始めた。しかしながら、軍隊を召集するには時間が足らず、首都には通常通り警備隊だけが留まっていた。

 4月25日、モスクワから20露里離れたクリャージマ川の岸辺で、親族同士が対戦することとなった。モスクワの義勇軍は、士気を鼓舞するためにアルコールを摂取していたが、そこからは大した成果は得られなかった。

 大公ヴァシーリー二世はモスクワへ戻ると、そこから妻と母親、移動用の資金を携えてコストロマへ逃れたが、そこで叔父ユーリーに捕われてしまった。捕虜となったヴァシーリー二世を、ユーリーはまったく寛大に処し、彼に対して高潔に振る舞った。自分の息子たちや、フセヴォロシキーを筆頭とする貴族らの不満の声にもかかわらず。このユーリーの振る舞いは、それに従って彼自身が、甥が大公であることに異論を唱えていた、その、一族における年長制の決まりに則ったものであった。モスクワを占領し、大公と自認したユーリーは、ヴァシーリー二世と和平条約を調印した後にヴァシーリー二世を「許し」、ある余る贈り物を与え、家族や貴族の者らと共に彼を解放した。その上、モスクワ公国の領域における、モスクワに次ぐ二番目の都市であるコロムナを領地として彼に与えた。コロムナは、モスクワ公家の中でのヴァシーリー二世の地位と一致していた。つまり、一族におけるユーリーの次の世代の中で、ユーリーの長兄の長男として、彼は年長制の長子の権利を有していた。

 その後に起こった出来事は、実に予想外の展開であった。

 殊にユーリーにとってはそうであった。

 次回は「ヴァシーリー二世、再びモスクワを離れる」。乞うご期待!

(文:大山・川西)

PAGE TOP