NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ヴァシーリー・コソイ
ru.wikipedia.org/wiki/Василий_Юрьевич_Косой より


▲ ドミートリ―・シェミャカ
https://ru.wikipedia.org/wiki/Дмитрий_Юрьевич_Шемяка より

 ルーシ史上、初めてモスクワで戴冠式を行った若き大公ヴァシーリー二世は、次に叔父ユーリーを大人しくさせようと決めた。彼は、ドミートロフ公国からユーリーの代官を追い出し、その地をを再び自分の領地として没収した。ユーリー側からの反発はすぐには起こらなかった。平穏で落ち着いた状態がしばらく続き、その間にヴァシーリー二世は花嫁を選んだ。これには未亡人である彼の母親のソフィアも積極的に参加した。母親と息子が選んだのは、セルポフ公ウラジーミル(勇敢公)の孫娘に当たる、ボロフスク‐セルプホフ公ヤロスラフの娘マリヤであった。

 1432年の秋遅くに二人の婚約式が行われ、翌年の2月8日には結婚式が執り行われた。年代記には、彼らの唯一の娘であるアンナと、七人の息子のことが言及されている。

 柔和さや意志の弱さ、さらには裏切り行為といった性格的側面が、若い頃からヴァシーリー二世には見られた。ドミートロフ公国を占領し、叔父ユーリーから反撃を受けなかった大公は、問題は霧消したと安易にみなした。ところが、この間、ユーリーは自分の領地のガーリチで、モスクワへ向けた遠征の準備を整えていたのであった。

 大公の結婚に関連した二つの出来事が、さらに事を早めることとなった。

 汗国でモスクワの利権を守るために奔走した貴族のフセヴォロシキーは、自分の娘をヴァシーリーに嫁がせるつもりだった。もともと彼の努力のおかげで、ヴァシーリーは大公国勅書を無事に手に入れることができたのであった。いくつかの史料では、勅書をめぐる議論が良い結果となることを条件に、ヴァシーリーがフセヴォロシキーに、彼の娘との結婚を約束する言葉すら与えていたことがほのめかされている。だが、フセヴォロシキーは自分の任務を見事に果たしたが、彼の娘は大公妃にはなれなかった。

 ヴァシーリー二世の裏切り行為に憤慨したフセヴォロシキーは、モスクワを立ち去ってコンスタンチン(前大公ヴァシーリー一世やユーリーの弟)がいるトヴェーリへ向かったが、そこでは支援と同情は得られなかった。そこで、彼はガーリチに向かい、言うまでもなく、そこにいるユーリーとは完全に利害が一致した。

 二つ目の出来事は、大公の結婚式の最中に勃発した。結婚式には、ユーリーの二人の息子であるヴァシーリー・コソイとドミートリー・シェミャカが出席していた。貴族の中の誰かが、ヴァシーリー・コソイが、ドミートリー・ドンスコイが遺言で長男に残した金の帯を身に付けていることに気づいた。もしかして、それはそのように単に見えただけなのかもしれないが、特に調べられもせず、前大公妃ソフィアの命令によって、皆の眼前でヴァシーリー・コソイから帯がはぎ取られたのである。こういった行為は当時、侮辱であるばかりでなく、脅迫ですらあった。

 次回は「ヴァシーリー二世、モスクワから追放される」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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