NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

 ヴァシーリー一世が自らの統治期間、少なからぬ犠牲を払っても友好関係を保持しようと努めた、その相手のリトアニア公ヴィトフトは、大概において平和を乱しはしなかった。しかし、北方の地プスコフの人々とリトアニア公との摩擦は、やはり起こった。1422?23年に幾度かプスコフの人々は、大公ヴァシーリー一世に、ヴィトフト絡みの似通った論争の仲介をお願いしたが、ヴァシーリー一世は、それ以外のあらゆるプスコフの願いには誠実に応じながらも、その要請には応答することすらしなかった。

 この理由は後日明らかになった。それは、大公が自分の遺言状の中で、自分の後継者である息子と妻の主要後見人として、まさにヴィトフトを指名した時であった。

 汗国ではその頃、お決まりの内乱が起こっており、汗たちは互いに首をすげ替えることを繰り返し、ヴァシーリー一世はもう何年もサライ‐バトゥへ貢税すら送っていなかった。汗国の力を軽視するそれといった理由は見当たらなかったのだが。

 1408年、エジゲイ汗はリャザン公国へ侵入し、地元の部隊を撃破、その後コロメンスクの部隊をも打ち負かし、11月の終わりにはモスクワへ接近した。おそらく、エジゲイ汗は緊要に金銭を必要としていたのであり、彼は驚くべきことに冬の直前に行軍を開始した。こういった振る舞いは以前のタタールに決して見られず、モスクワ側にとっても予期せぬ事態となった。

 ヴァシーリー一世はモスクワの防衛を叔父であるセルプホフのウラジーミルに委ね、ウラジーミルを助けるために自分の弟のアンドレイとピョートルをそこに配属させ、自身は軍隊を集めるためにコストロマへ向かった。エジゲイによって送り出された追跡隊は、大公に追いつけなかった。タタール人はモスクワをすぐには襲撃しようとしなかったが、その準備はしていた。

 エジゲイ汗自身はコロメンスクに陣取り、自分の部隊を近隣の土地を略奪するために四散させた。三週間の間で略奪され焼き払われたのは、コロムナ、ペレヤスラヴリ、ロストフ、ユリエフ、セルプホフ、ドミートロフ、ズヴェニゴロド、モジャイスク、ヴェレヤ、ニージニー・ノヴゴロド、ゴロジェツ、クルムィシの町々であった。だが、その時に「汗の位を狙う者が現れ、新たな内乱の機が熟している」という知らせが汗国からエジゲイの元に届き、タタール側の破壊行為は中断された。エジゲイ汗とその軍隊はすぐさま帰国せねばならなかったが、汗は、モスクワが内乱の事実をまだ掴んでいないことを逆手に取り、包囲を解く条件として町から3000ルーブルものお金を受け取ったのである。

 大公はヴァシーリー一世はおそらく、この一件から「不意を突かれる襲撃の脅威のことを考えれば、いたずらに汗国を苛立たせない方が得策である」という教訓を得た。事実、1412年には大公は貢税と豊かな贈り物を携えて新しい汗のところへ表敬訪問し、その代わりに自身の大公国統治への承認を得た。その後彼の統治期間において、汗国との紛争はなかった。

 次回は「大公位譲渡問題」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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