NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ アルハンゲリスキー大聖堂
Wikipedia 聖天使首大聖堂_(モスクワ)より


▲ クレムリンのスパスカヤ塔
Wikipedia クレムリンより

 ウラジーミル大公国を「自分の世襲領地」として息子に遺すことを明言した大公ドミートリーの遺言状であるが、いくつかの史料では、ドミートリーが汗国の力を軽視していた証拠としてこの事実が説明されている。だが、それは極めて疑わしいと思われる。なぜならば、大公ドミートリーが亡くなるまで、トフタムィシ汗治める汗国はいかなる大規模な軍事行動も為さず、トフタムィシ汗の地位は確固としており、その当時汗国のいかなる弱体化をも語るには及ばなかったからである。また、ドミートリーの死後、その息子ヴァシーリー一世が世襲領地としてウラジーミル大公国の統治を受け継いだことをめぐって、ルーシ諸公ともタタールともいかなる軋轢もいさかいも生じなかったからである。

 ドミートリー・ドンスコイはその統治期間中、戦争の準備期間を含めずとも、およそ16年間も戦争に明け暮れていた。大公は7回の会戦に自ら参戦した。父親が残してくれた遺産に比べて、彼の領地は数倍にも増した。多くのルーシ諸公はタタール人との戦闘時のみ彼と同盟を結んでいたのではなく、それ以外の時も彼の威勢を重んじざるをえなかった。

 1389年の早春、大公は重い病気になった。病に打ち勝てないだろうと感じた彼は、4月の中旬から遺言状の作成に取りかかった。この時、長男のダニールはすでに亡くなっており、ドミートリーは、ウラジーミル大公国を含む領地の大部分を次男のヴァシーリーに遺言して譲った。彼はそれまでのモスクワ大公が国土を子供らに分割していたのを改め、年長の子に他の子よりも広大な領土と多くの財産を残した。モスクワ以外には、ヴァシーリーはさらにコロムナを得、弟のユーリーはズヴェニゴロドを、アンドレイはモジャイスクを、ピョートルはドミトロフを得た。また、大公は妻に、モスクワ国庫の収入の一部と、慣例によって、息子たちの各分領地の一区域を寄贈した。

 ドミートリー・ドンスコイは若い頃から模範的で敬虔な行いを為し、毎日教会へ通い、大斎期の時には苦行者の着る動物の毛でできた衣服を裸の体の上にはおった。しかしながら、彼は死の前に修道僧になるための剃髪式を受けることを欲しなかった。数日、あるいは数時間の修道僧生活では魂は救われない、と考えていたからである。1389年5月19日の夜半近く、大公は他界した。翌日、彼はアルハンゲリスキー大聖堂の一族の廟に埋葬された。

 この年、大公妃エヴドーキヤはモスクワのクレムリンのフロロフスキー門(後のスパスカヤ塔)の傍にキリスト昇天修道院を建てた。そこで彼女は剃髪して修道女となり、エフロシーニャという名に改名し、死後ここに埋葬された。その時からキリスト昇天修道院は、大公一族の、後には皇帝一族の女性の正式な廟となった。復活祭の祭日には、皇帝は教会での礼拝の後に最初にキリスト昇天聖堂の母親の墓に参り、その後アルハンゲリスキー大聖堂にある父親の棺に向かった。

 1988年、ロシア正教会会議は、ドミートリードンスコイをロシア正教の聖人に列聖した。

 次回は「大公ドミートリーとラドネジの聖セルギイ」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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