NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ドミートリー・ドンスコイ時代の貨幣(ペテルブルグ、エルミタージュ所蔵)
История денег в Россииより


▲ モスクワにあるドミートリー・ドンスコイの銅像
Интересная Москва.より

 年代記作者は、タタール軍退却後にモスクワへ戻ってきた大公ドミートリーが、モスクワの地の数多の屍、破壊の跡の恐るべき光景を見て痛ましい涙を流したことを、記している。

 トフタムィシ汗の軍隊によってモスクワを滅ぼされたドミートリーは、すぐさまいくつかの連隊を集めた。そして、トフタムィシ汗の軍隊をモスクワの外で引き留めておく義務を怠ったリャザン公オレーグを罰するために軍を差し向けたが、リャザンの地はすでにモスクワから汗国へ戻るタタール人によって荒廃させられていた。

 これらのことが知れ渡ると、ルーシ諸公はモスクワに見切りをつけ、次々に汗国へ忠勤を示すために出向いていった。その中には、大公位を欲しないという誓いを立てたはずのトヴェーリ公ミハイルもいた。彼は再び、大公国勅書のために奔走し始めたのである。このトヴェーリ公に対抗して、1383年4月、大公ドミートリーは汗国へ息子のヴァシーリーを差し向けた。ドミートリーはミハイルの計画を事前に握りつぶすことには成功したが、ヴァシーリーの身代金として8000ルーブルを汗国から要求された。これは荒廃した公国にとっては、莫大な額であった。お金は結局集められなかった。ヴァシーリーは名誉ある人質として汗国にとどまることになり、彼が捕らわれの身から逃れることに成功したのは1385年のことだった。

 モスクワと汗国との軍事衝突は、大公ドミートリーの統治の終わりまでもはやなかったが、年代記には、リャザンの地にタタール人が二回襲撃してきたことが触れられている。

 頻繁にモスクワと汗国を行き来するようになったタタール人の使者らは、実に残酷なやり方で時期毎に貢物を搾り取った。こうして再びルーシはタタールの軛を付けさせられ、それは、ドミートリーの時代に鋳造され始めたモスクワの最初の硬貨にも影響を与えた。その硬貨の裏面には、アラビア語でトフタムィシ汗の幸福を祈る銘が刻まれていた。

 非常に困難な財政状況にもかかわらず、人々は重い貢税の支払いの他に、モスクワや他の町々を復興させねばならなかったが、こういった中で、大公ドミートリーの地位は政治的にも十分に安定していた。クリコヴォの会戦の後、汗国はルーシに対してより用心深く動くこと、ルーシの政治の場での権力の配置を重視することを余儀なくされた。汗はウラジーミル大公位をドミートリーに確保しただけでなく、ウラジーミル大公国のすべての地を彼の世襲領地とすることに同意していた。そのことが文書にしたためられた証拠はないが、ドミートリーはその遺言状の中で、モスクワの他に、まさに「自分の世襲領地」としてウラジーミル大公国を治める、自分の後継者である息子を祝福している。

 次回は「大公ドンスコイ、逝去する」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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