NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ トフタムィシ汗
http://history-doc.ru/xan-toxtamysh/ より


▲ 1389年頃のキプチャク汗国
https://ru.wikipedia.org/wiki/Тохтамыш より

 クリコヴォの戦いにおける勝利は結果的に、ルーシの敵対者に手を貸してしまうこととなった。このドン川岸辺での激戦まではキプチャク汗国はママイによって忍従を強いられていたが、ママイの軍隊がドン川にて敗北すると、キプチャク汗国はその残党らを迅速に始末し、翌年初めには、ヴォルガ川の沿岸部にトフタムィシ汗を長とする、より広大な国家を形成したのである。

 新しく出現した強大な権力を前に、ルーシ諸公らはトフタムィシ汗の権威を認める以外なかった。貢物を携えたルーシの代表団が、トフタムィシ汗に対して派遣された。トフタムィシ汗はルーシ諸公にはいかなる敵対的な意図も示さず、したがってルーシ側も、タタールはもう決してルーシの地を侵すリスクを犯さないだろうと考えた。

 しかしながら、トフタムィシ汗は自らの権力を強化するために大金が必要になってきた。

 1381年の夏、トフタムィシ汗の使者として汗の息子のアクホジャが、700名もの兵士を伴ってモスクワにやって来た。大公ドミートリーを汗国へ招くためであった。だが、アクホジャはルーシの地の行く先々で住民の反タタール感情を読み取り、ニージニー・ノヴゴロドより先に行くことをためらった。アクホジャがどのように汗国に報告したかは定かではないが、いずれにしても、大公が汗の招待状を受け取ることはなかった。とはいえ、それにしても、ニージニー・ノヴゴロドの諸公らが招待状をモスクワに届けることもできたはずで、こういった結果は、ニージニー諸公の妨害もあったように思われる。

 一方、トフタムィシ汗は大公ドミートリーもドミートリーの使者も待ちきれずに、1382年の夏、不意に大軍を率いて真っ直ぐにモスクワを目指した。彼は、慣例である道中での強奪のために時間を割くことすら許さなかった。リャザン公オレーグは、その先だっての不適切な振る舞いにもかかわらず、大公ドミートリーの下で平和条約を結んでいたが故に、タタール軍を少しでも引き留めておく義務があった。しかし、オレーグはタタール軍を引き留めるどころか、その反対に、タタール軍に自身の領土を迂回すべくオカ川の浅瀬を示した。自身の領土を守りたいがためであった。しかしながら、オレーグがトフタムィシ汗の好意に寄ることはむなしいことであった。トフタムィシ汗の軍隊はその帰り道、リャザン公国を残らず破壊していったからである。

 次回は「大公ドミートリーの逃走とモスクワ陥落」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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