NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ 中世時代の兵士の武装
https://pikabu.ru/story/
oruzhie_slavyan_5372199
 より


▲ 中世時代の兵士の武装
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 カザンの地で汗国の公がモスクワへの貢税支払いを強要されたことを受け、ママイはモスクワに、経験豊かな軍司令官であるムルザ(タタールの小士族)のベギチを長とする、何万という軍隊を差し向け、それによってルーシに対してかつてのような権力を振おうと試みた。ベギチ率いる軍隊来襲の報告は折よく間に合い、大公ドミートリーはモスクワの軍隊を率いて出陣した。彼の軍隊はオカ川を渡り、リャザンの軍勢によって補強されると、そのリャザンの地、すなわち、オカ川右岸の支流ヴォジャ河畔においてベギチの軍と出くわした。1378年8月11日、大公ドミートリーの軍隊は名門ムルザの軍隊を撃破し、ベギチ自身は非業の最期を遂げた。タタール人の兵士のある者は逃走し、ある者は捕虜になって軍用馬車につながれて連れていかれた。ママイはこの報復として一年後にリャザンの地を破壊したが、オカ川を渡りはしなかった。自分の力だけでルーシへ進軍するのは、今や力不足であることを理解していたからである。

 その後二年をかけて、ドミートリーは遠征の準備を整えた。ヒバ人、オセット人、チェルケス人、クリミア半島にいるジェノア人が傭兵として徴募された。

 一方、亡くなったリトアニア大公オルゲルトの息子はママイと同盟を結んだ。彼の土地はその近年に、リトヴァにおける動乱を利用したモスクワの部隊によって破壊されたのであり、彼はモスクワを憎んでいた。ドミートリーもこの同盟のことは無論知っており、十分計算に入れていた。ルーシでは町々の通路や要塞が補強され、新しい軍隊が編成されて訓練された。遠距離や近距離における通報システムが調整された。ルーシの人々の自我意識は高揚しており、もし汗国の個々の部隊ではなく、汗国が国全体を挙げて遠征を繰り出したら、ルーシの諸公国が力を合わせてもかなわないということを皆よく理解しており、ルーシの人々の戦意は高まっていた。

 1380年8月半ばまでに、大公ドミートリーの旗の下におよそ20の公国の従士団が集まったが、大規模数の従士団だったのは、モスクワ、ロストフ、ヤロスラフだけであった。諸史料においては軍隊の兵数にかなりのばらつきがあり、10万人から20万人までの幅がある。しかし、ドン川へ向かって行軍していったルーシの連合軍は、その道中の先々でさらに民兵や志願兵が加わったのであり、最終的な兵数は不明である。

 タタールに対抗するための同盟への参加を露骨に無視したのは、ニージニー・ノヴゴロドとトヴェーリであった。また、リャザン公オレーグも複雑な立場にあった。彼の土地は汗国からの攻撃の脅威の下にさらされており、とりわけママイが敗北するか退却する場合に攻撃を受けることが多かった。同時に、まさにこの理由から、彼はルーシ諸公の同盟に公然と反対することができなかった。彼にはタタールに対する別の防御手段がなかった。オレーグは、どっちづかずの態度を取る以外、良い方法が思いつかなかった。

 次回は「ドミートリー、ドンスコイの異名を得る」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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