NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ ママイ
https://udivim.net/mamai.html より


▲ オカ川周辺の地図
https://ja.wikipedia.org/wiki/オカ川 より

 時代が少し遡ること1371年、大公ドミートリー四世の大公国勅書を承認したママイ(第155回参照)は、ウズベク汗やチャニベク汗がその統治時代に歴代の大公らから受け取っていたものよりも少ない貢税で満足しなければならなかった。

 1373年、連隊を率いたドミートリー大公は、リャザン公国を荒廃させたタタールの軍隊をオカ川の右岸に押しとどめ、夏の間ずっと彼らを左岸へ渡らせなかった。加えて、国境となっているオカ川沿岸部のセルプホフにものすごい速さで要塞が建造され、そこが重要な防御拠点となった。

 1374年、ニージニー・ノヴゴロドにおいて、市民たちが、部隊を随伴したママイの使者団と衝突し、使者団の長のサライカとその警護隊を要塞へ監禁してしまった。年代記作者が伝えるところによれば、このためにママイ率いる汗国とルーシとの関係はひどく悪化した。十中八九、このことが引き金となり、この年の末にルーシ諸公がペレヤスラヴリに集まり、大公ドミートリーと大部分の諸公は、ママイに対してさらに強く結託して行動していくことを決定した。

 1375年の3月末、ニージニー・ノヴゴロドに監禁されていた汗の使者たちが禁固から逃れようと試みたが、皆殺しにされた。その報復としてママイは、キーシャ川とピィヤンナ川の岸づたいにあるニージニー・ノヴゴロドの南方の地を破壊したが、それ以上先には進まなかった。おそらく、汗国に蔓延していた疫病のペストがその理由だったと思われる。

 1377年、ママイ率いる汗国に、大公ドミートリー四世から公然たる挑戦が投げかけられた。カザンに接近した大公の軍隊は、そこに住み着いた汗国の公の一人にモスクワへ貢税を納めるよう強要したのである。

 彼らルーシ諸公のママイ率いる汗国に対するこういった挑戦的な行為は、彼ら自身の大胆さによってばかりは説明できない。彼らが確実に力を付けていたことがその後判明する。一方、軍司令官ママイは当時強大な力を持っていたとはいえ、彼はチンギスハンの子孫ではなくて単なる軍司令官にすぎなかった。しかも、彼の側についたのは、汗国の軍隊の一部だけであった。もしルーシがそのすべての力を結合させたら、言うまでもなく、ママイ率いる汗国と対等に戦うことができたはずである。ママイ率いる汗国と分裂し、対立していた、正統なるキプチャク汗国においては、ママイは一時的に権力を掌握した偽称者、罪人とみなされていた。それゆえ、この後に起こるクリコヴォの戦いが終結した時、タメルランや他のチンギスハンの子孫たちは、大公ドミートリー四世に対して、彼らの“共通の敵”に勝利したことへの祝いの辞を早々に述べたのである。

 次回は「ドミートリー四世vs.ママイ」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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