NPO法人神奈川県日本ユーラシア協会

▲ 汗国へ逃げるミハイル
Википедия, Михаил Александрович (князь тверской) より

 援助を求めてリトアニアに赴いたものの、チュートン騎士団と戦っていたリトアニア大公オルゲルトから何も得られなかったトヴェーリ公ミハイルは、そこから真っ直ぐにヴォルガの岸辺へと向かった。高価な贈り物を携えたミハイルは、軍司令官ママイの傀儡であるママント-サルタン汗のもとで、ウラジーミル大公国の勅書を受け取った。こうして、トヴェーリとモスクワとの対立は最高レベルにまで高まった。

 しかしながら、1357年から1370年の間に汗国では25人以上の汗が首をすげ替えられており、凄まじい交代劇の中にその身を置いていた汗たちは、誰一人としてルーシの内紛に真剣に関わろうとはしなかった。

 トヴェーリとの緊張が高まると、モスクワ大公ドミートリー四世は、ウラジーミルへ通じる道に見張りの部隊を配置した。一方、ミハイルはがむしゃらにモスクワへ進もうとはせず、モスクワの待ち伏せ部隊の脇を通り過ぎ、汗の使者と共に再びリトアニアへ向かった。そして1370年12月6日、オルゲルトとミハイル、そしてスモレンスク公の一人は、軍隊を引き連れてモスクワへ接近した。

 大公ドミートリーは、彼のいとこがペレムイシュリで主要な軍隊を集めている間、モスクワの街中に閉じこもり、敵の注意を自らに引きつけていた。八日もの間、オルゲルトはモスクワを襲撃し続け、籠城しているドミートリーに永遠の和平を結ぶよう求めたが、ドミートリーは休戦のみに応じ、オルゲルトはすぐさま自国へ戻っていった。スモレンスクの公も彼と一緒であった。一人になってしまったトヴェーリ公ミハイルは、モスクワと和平を結ぶ以外なく、まさにそのことによって、ウラジーミル大公国を大公ドミートリー四世のものとして認めることとなった。

 その後もおよそ五年もの間、破壊に破壊を招く互いに対する強襲が何度も繰り返された。この間に二度ばかりミハイルは汗国で大公国の勅書を受け取り、ドミートリー自身も、一度自分の勅書を確認するために、汗のもとへ赴いた。ミハイルはリトアニアを頼り、大公ドミートリー四世はルーシ諸公の同盟に頼っていた。ドミートリーはミハイルがウラジーミルに立ち入ることを決して許さず、1370年以降はモスクワにも入ることも認めなかった。こうして大公ドミートリー四世は汗の意志に公然と不服従を示し、極めて大きなリスクを冒していた。しかし、汗国は弱体化が進む一方で、タタール人はモスクワとトヴェーリとの争いに介入することができなかったのか、あるいは、それを重要なこととみなさなかったのか、どちらかであった。

 トヴェーリとモスクワの決戦は1375年となった。その年の7月に、トヴェーリのミハイルの元に、最後に手にすることとなった大公国勅書が汗国から送り届けられた。

 次回は「モスクワ、トヴェーリを服従させる」。乞うご期待!!

(文:大山・川西)

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